貴方をそれほどまでに縛り付ける 男は走り続けた。 息が上がっても、汗が目の中に入っても。 どんなことがあっても足を止めようとはしない。 出来るだけ遠くへ。 そう望む心が彼を遠くへと運んでいた。 だが、どれ程遠くへと逃げたとしても、あの男から逃げられる事はないと本能的に感じている。 一度足を止めれば直ぐ後ろにあの男の気配がしそうで、振り返ることすら出来ない。 いい加減疲れていた。 しかし、それでも男は諦め切れなくて、前へと進む。 鉛のような重さの足を動かして、泥沼のようなぬかるんだ闇の中。 たった一人で。 あの男は既にこの世にいないのに。 「 突然、脳内に聞きなれた第三者の声が響き渡った。 それは男の心に安堵の火を灯し、走っている足を軽くさせる。 一体、これは誰の声だ? 男は意識の中を探った。 常に聞いているはずのその声の主が、どうしてだか今は名どころか顔も浮んではこない。 眉間に皺を寄せ、男は走りながら頭を軽く左右に振ってみる。 すると闇の中に彼の汗が飛び散って、彼を取り巻く重い空気へと消えていった。 そういえば、ここはやけに曖昧な空間だと男はふと意識をそちらへやった。 見渡す限りの闇はまるで眼球を完全に潰されたように真っ暗で、しかも物音が全くしない。 視覚と聴覚を完全に奪われて、頼りの触覚のみをフルに始動させている感覚に不思議と違和感がなかった。 しかし改めて考えてみれば可笑しな話である。 男の視覚も聴覚も健全そのものであり、そんな空間などあるはずないと言い切れるはずなのだ。 走っていた男のスピードが徐々に弛んでいく。 すると先程まで確かに上がっていた息が、今は完全に平常の時と同じくらい落ち着いていた。 「シキ様……お目覚めください。そろそろお時間でございます」 再度、あの声が脳内を駆け巡った。 ………この声は、そう、 そして男は漸く自分が夢を見ていたのだと気が付いた。 「もう、朝か」 閉ざしていた目蓋をゆっくりと開き、紅い瞳で声の主の姿を見つめる。 冷たさ滲む整いすぎた人形のような顔は、確かに彼の腹心の顔だった。 「えぇ。朝食のご用意がそろそろ整います。シキ様のご準備が整い次第、食卓の方へご案内いたします」 整った顔に感情すら浮かべず、決まりきった言葉をよどみなく声に乗せると彼のお気に入りは静かにその頭を垂れた。 胸の位置で脱いだ帽子を右手で支える彼の顔は、艶やかな髪に隠れているが恐らく頭を下げた時と全く変わらず至極冷静なものであろう。 「あぁ、分かった」 ……―男、シキは緩やかに頷いてベッドから起き上がるとそのまま床の上に降り立った。 そして己の気に入りの目の前で夜着を脱ぐと普段の軍服へと手を伸ばし、袖を通す。 シキの真っ白な肌が黒い軍服に隠れ、完全なる支配者の顔に成るのにそう時間はかからなかった。 全ては普段通り。 それ以外、なんでもなかった。はずだった。 己の心まで入り込むような何処か懐かしさを感じる強い視線を、感じるまで。 此処には、二人しか存在しない。 だとすれば 「それでは、食卓の方へ。本日のメニューの方はそちらに着き次第、料理長の方から説明があるそうです」 シキは飽く迄その視線に気付かぬフリで、自分の気に入りの部下、アキラに声をかけた。 それを受けてのアキラの声は、全く同じだった。 だが、シキはアキラの方を振り返らない。 視線の強さが、あの男に似ていた。 そう考えてしまった己を恥じるように、そしてそんな事実を認めたくないというように。 気付かれないように背筋を伸ばし、部屋を後にした。 「もう朝か」 そう言ってゆっくりと目を覚ましたシキを眺めながら、アキラは心のそこで上がる昏い炎に身を焦がしていた。 うなされている夢の正体を、知っていた。 眠りの世界にいるシキの汗の中に存在する、あの男の存在。 自分がどれ程この方を愛しても、彼を独占できる事など不可能に等しくて。 それどころか瞳の中に入れてもらえる事こそが、ひどく稀なような気がしていた。 「えぇ。朝食のご用意が……」 脳内に完全にインプットされたセリフが、彼の意識とは無関係に勝手に声を使って外に流れ出す。 能面のような表情の下に許されない感情を隠しながら、アキラはシキの方を見つめていた。 彼の許しがなければ決して眉一つ動かしてはいけないこの状況に於いても、アキラは苦痛だと感じたことがなかった。 当然だ。 目の前に、己の命よりも大切な存在がいるのだから。 「あぁ、分かった」 シキがベッドを下りて夜着を脱ぐ。 朝の陽の光に照らされてその滑らかな背中が顕わになる。 この背中を、あの男はどんな風に嬲ったのだろうか。 浮き出た肩甲骨を舐り、項に強く噛み付いて。 拒絶しながらシキの喘ぐ姿がアキラの網膜を支配していく。 完全に仮面を被った表情の中、僅かに外れた隙を突いてシキを独占したいという欲がアキラの瞳の奥に浮かび上がる。 途端、シキの躰に一瞬緊張が走ったのが見えた。 アキラは瞬時に姿勢を正すと、無言のまま静かに瞳を閉じた。 「準備は整ったぞ、アキラ」 シキの声がする。 平静そのものの声の中に、確かに動揺の色が混ざっていた。 「それでは、食卓の方へ。本日の………」 部屋を後にするシキの後を追いながら、アキラは再び無意識に決まりきった言葉を述べていく。 恐ろしく禁欲的なシキの後姿に、握り締めた左の手のひらに爪が食い込んでいた。 アキラは知っていた。 その後姿が物語る、あの男への幻の存在に。 そして勝手からも尚、その影にシキが囚われている事を。
貴方は結局、あの男以外にその心には入れる事はない FIN |
今回はWEBで初めてのアキシキです。やっぱりアキシキは良いですよ。といいますか、シキ受。それがすきなんです。そしてアキラがどうしようもなくシキに心を囚われていて、シキはシキでnに心を完全に奪われていると凄く嬉しいです。だってあんなに真っ直ぐなんですよ?シキ。絶対に「可愛さ余って憎さ百倍」のパターンですよね。うん。そんなシキに少しでも自分を見て欲しいと足掻いているアキラがまた楽しくてなりません(笑)この作品も、そんな思いを込めてみました。少しでも感じていただければ幸いです。
◆γуμ‐уд◇ |